子育てと闘病を両立する方法。

大腸がんステージⅣの闘病と子育てを両立させ最終的に完治した闘病記を記します。

突然の喜びにどう対応すれば。

東大病院にて信じられない喜びが突然舞い降りてきました。

人生最大のプレゼントが差し出されたのです。

ありがたく受け取るなんてできるわけがありません。

「ありがとう。感謝します。」

なんていう言葉はありがたい展開になる予測がなんとなくついていた時に出てくる言葉です。

全く予想してなかった手の届かないようなプレゼントをいきなり「あげるよ」と差し出されたら。

あなたならどのような対応を取りますか?

私は「は?」としか言えませんでした。

「肺への転移は間違いだった。手術もなし。抗がん剤もなし。」

このような言葉を聞けるとは思っていませんでした。

癌であることを知った初期の頃は,「これが間違いだったらいいのに」と常に思っていました。

しかし,過酷な抗癌剤,手術を繰り返しているうちに,かなり正確に次の展開を予想できるようになりました。

従って「明日起きたら癌が無くなっていたらいいのに。」というようなバカな妄想は全くしなくなっていました。

そんな私に突然そのバカな妄想が現実となって表れたのです。

バカな妄想と書きましたが,言い換えればイメージングです。

今,引き寄せの法則が流行っています。

引き寄せる方法として「イメージング」を挙げています。

しかし,私に言わせると「イメージング」している間は引き寄せられません。

何も実現しません。

今回の事でよくわかりました。

「イメージング」したことなど忘れ去ってしまった時,以前「イメージング」したことが実現するのです。

従って「イメージング」自体はやっておいた方がいいと思いますが,早くそこから立ち去らねばなりません。

毎晩,ある映像を「イメージング」するとかやっているうちはまず実現しないでしょう。

話を戻して・・・。

人生最大のプレゼントを戸惑いながらも受け取ったとき,私は完治しました。

正確には5年たたないと完治したとは言えません。

しかし,私はこれまでたびたび再発していたにもかかわらず,この時「完治したようだ」と思ったのです。

私の闘病記は以上です。

長い間読んでいただきありがとうございました。

次回から数回,これまでの闘病記であなたのためになる部分をピックアップしてまとめていくつもりです。

 

私は大腸癌ステージⅣで手術と抗がん剤を2回受けましたがすぐに再発しました。

最後に再発した場所が肝臓の難しいところで手術はできませんでした。

延命のために過酷な抗がん剤を受けながら,「引き寄せの法則」を実践しました。

私は東大病院にたどり着きました。

そして不可能であった手術をしてもらいました。

そして肝臓の癌は完全に切除してもらいました。

しかし肺に転移している問題はこれから対処しなければなりませんでした。

ところが肺の癌は癌ではありませんでした。

以上が私の闘病の大雑把な流れですが,一つ特徴があります。

それは「引き寄せの法則」を最悪の状況の時に実践したことです。

あなたは「あれ? さっき言ってたことと違う」と思いましたか?

私はさっき「イメージング」は意味がないと言いました。

しかし「引き寄せの法則」を実践したおかげで東大病院にたどり着いたかのように書きました。

そうです。

私が行った「引き寄せの法則」は「イメージング」ではないのです。

 

 

喜びは突然やってくる(その2)

T先生は笑顔で,

「いかがですか?膿は治まりましたね。」

私は引きつった笑顔で

「はい。治まりました。」

それからT先生は耳を疑うようなことをおっしゃいました。

「術後何回かCTを撮りましたが,肺には転移してないようです。」

「え?」

「腫瘍マーカーが完全に下がっていますし,画像的にも癌ではなく水泡のような塊に見えます。」

「え?」

「何かあるようですが,それは癌ではありません。」

「え?」

「おそらく水泡です。」

「え?」

「ということで手術はしません。」

「えー!!」

私は喜びと悲しみが混ざっている感情をこの時感じました。

私は思わずT先生に,

「先生! 肺転移してなかったことはものすごくうれしいですが・・・。」

「手術しないということは,抗がん剤が始まるということですか?」

T先生はまた,耳を疑うようなことをおっしゃいました。

「補助化学療法の事ですか?補助化学療法はやりません。」

「患者さんの状態によりますが,当院では補助化学療法はやらないことが多いですね。」

「再発したら,また手術します。」

「それだけです。」

私は本当に耳を疑いました!

天国に飛んでいったような気持ちです!

「先生。それでは今後は・・・。」

と聞くと先生は,

「今後は月に一回の外来と3か月に一回のCTです。」

とおっしゃいました。

信じられません。

予想もしていなかった展開です。

予想していた最高のシナリオは「肺転移の切除手術をやるので,抗がん剤は休止」でした。

でも実際は「手術なし。抗癌剤なし。」でした。

予想外の展開に頭が混乱しました。

診察室から出て,再び椅子に座って騒いでいる頭の中を鎮めました。

静かに「東大病院サイコー!!」と心に中でつぶやきました。

 

喜びは突然やってくる(その1)

とうとう外来の日がやってきました。

もうこの頃はおばあちゃんの付き添いはなく一人で病院に行っていました。

腹からのチューブも先日取れて,もう身軽でした。

「肺転移の切除手術をやるので,抗がん剤は休止」

これが考えられる最もうれしいシナリオです。

電車に乗っている時も,駅から東大病院に歩いている時もずっとこのシナリオを考えていました。

前回の手術は本当に大変でした。

しかし,抗癌剤に比べればまだましでした。

言っておきますが,これは私の感想です。

私と同じ程度の癌で同じ抗がん剤を受けている人がいましたが,その人は平気そうでした。

少し気持ち悪いだけだと言っていました。

しかし私にとっては地獄でした。

抗癌剤の副作用は人それぞれなのです。

話を戻します。

「肺転移の切除手術をやるので,抗がん剤は休止」

このシナリオを思い描きながら中待合に座り,とうとう私の名前が呼ばれました。

至福の時間に不安感が襲ってくる。(その2)

私はすべてがそうです。

楽しい旅行に行っても半分が終わると帰る日の寂しさで悲しくなってしまうのです。

3泊4日の旅行なら2泊目朝,悲しみが始まるのです。

小学校の時も日曜のお昼に悲しみが始まるのです。

どんなに楽しい事も終わりがあります。

ああ話がそれてしまいました。元に戻します。

家で至福の時間を過ごしていたのに何が心配になってきたのか。

それは今後の治療の事です。

今回の手術の直前に「肺にも転移しているので近いうちにまた手術をする」と言われました。

この事実がひたひたと忍び寄ってきたのです。

その時の私の頭の中には闇のような深い黒い苦しみの塊が2つありました。

一つは「肺の手術」。

もう一つは「抗癌剤」。

この2つを客観的に比べると,「抗癌剤」の方が深くて大きな悲しみでした。

そうなんです。

私にとっては手術は前向き,抗がん剤は後ろ向きだったのです。

手術は挑戦,抗がん剤は絶望だったのです。

この状態で私の気分が上向きになるシナリオは,

「肺の手術を近いうちにやるので,それまで抗癌剤はなし。」

というシナリオです。

しかし考えてみたらこのシナリオはかなり可能性が高いです。

なぜなら,私の抗癌剤にはアバスチンが含まれています。

アバスチンは血管再生を阻害するので,これから手術というときには使用できません。

こう考えると暗い気持ちになっていたのが少し明るくなってきます。

どんなに私が全身全霊で考えても,なるようにしかならなくて,その最終通知は2週間後の外来で知らされるのです。

そう考えると残りの1週間,至福の時間を全神経をフル活動させて味わい尽くすぞと思いました。

そう思っていてもすぐに不安感に陥りますが,それでもそのたびに「考えても仕方ない」と至福の時間を味わうことに全神経を傾けました。

至福の時間に不安感が襲ってくる。(その1)

3回目の手術は大手術でした。

術後の辛さも初めの2回と比べるとかなり辛かったです。

退院してからも大量の膿が出て40℃の熱が出て,電車で東大病院に通いました。

しかし,3日通ったらもう来なくていいとT先生に言われました。

点滴は飲み薬で,処置も家で何とかやってみろということでした。

幸い膿は出ていますが,最初の時ほど大量ではなくなったので私でも何とかできそうです。

ということで2週間後に外来で,それまで家で処置になりました。

この2週間は真の意味で「幸せ」を感じました。

旦那がいる。

子供たちがいる。

実家の母がいる。

晴れの日は気分よく子供たちを送り出し,

雨の日は心配しながら子供たちを送り出す。

みんな学校や職場に行ったあと,新居浜おばあちゃんの働いている音がする。

洗濯機の音をバックに,食器や鍋を洗っている水のしぶきの音が聞こえる。

それらの音が鳴りやみ,鳥のさえずりだけが聞こえてくると,コーヒーの香ばしい香りがかすかに漂ってくる。

「コーヒーでも飲むで?」

と新居浜おばあちゃんの声が聞こえる。

下に降りて行って,コーヒーを飲みながらとりとめのない話をする。

「そろそろ上でやすまんかい。」

という母の声で,上に行ってベットに横になる。

午前の至福の時間です。

この至福の時間を2週間いっぱいぎりぎりまで味わえばいいのに。

半分が過ぎ去ったところで不安が頭をかすめました。

東大病院の美味しい店

点滴と処置が終わってお昼になりました。

今日は食欲があるので新居浜おばあちゃんとお昼を頂くことにしました。

東大病院と言えば最上階の「精養軒」ですが,私はあえて地下の「三四郎」に案内しました。

注)2021年現在、「三四郎」は閉店しました。

この「三四郎」は,机は合い席ですし普通の食堂という感じで,外見は全く惹かれないのですが,料理がすごくおいしいのです。

初めて東大病院に旦那と来た時,この食堂のおいしさに感動しました。

しかし,あの時はどこへ行っても手術ができない状態でここにたどり着きました。

そしてこの東大では手術ができるという返事をもらって有頂天になっていました。

そのせいで味覚も麻痺していておいしく感じたのかもしれません。

そして今日再びこの三四郎に来わけですが,やはり美味しさで感動しました。

庶民的なおいしさなのです。

思いっきり幼い記憶を刺激してくるのです。

新居浜おばあちゃんに感想を聞いてみました。すると,

「なんか。私が作った料理と変わらんね。」

と言い放ちました。

そうです。ここはお母さんの味なのです。

昭和のお母さんの料理なのです。

是非,近くに来た時は行ってみてください。

病気でなくても「三四郎」には入れます。

ああ。こんなグルメレポートのようなことを書くつもりはなかったのだけど・・・。

昨日と違って楽しい1日でした。

点滴も処置も昨日と同じでしたが,熱がないだけで(解熱剤で下げているだけですが)だいぶ違います。

これから数日間通うことになりますが,なんか楽しみになってきました。

今日,三四郎に来ましたので,明日は「精養軒」に行きましょう。

それ以外はあまりおいしいところはないと聞いているので,その次の日は冒険して東大の学内の方へ探検してみるのもいい案です。

しかし,お昼は学生でにぎわうので,やはり病院内がいいかも,と思っているとふとT先生の事を思い出しました。

T先生は昨日も,今日も処置してくれました。

そして明日も来るように言われました。

そうするとずっと病院にいることになります。

休みがないのでしょうか?

大学病院の医師はそんなに大変なのでしょうか?

これではブラック企業と同じです。

しかし,患者である私は,病院が年中無休である事が安心に繋がっているのです。

矛盾してますね。

この件に関してはもう少したったらじっくりと考えたいと思います。

東大病院と新居浜おばあちゃん。(その2)

先生がやってきて,

「こちらへ来てください。あ。お母さんですか。始めまして。」

とおっしゃいました。

私は新居浜おばあちゃんに,

「じっとしてないで時々歩いてよ。エコノミー症候群になるから。」

と言って昨日の大きな処置室に向かいました。

新居浜おばあちゃんは私の1回目の手術の時の付き添いで,エコノミー症候群になってしまったのです。

手術後の付き添いと言っても特にやることはありません。

看護師さんが全てやってくださるので付き添いは要らないのです。

しかし,初めての大手術でしたし,おばあちゃんはどうしても私に付き添いたかったのです。

「娘が癌。しかもステージⅣで死ぬかも。」

こんなことを聞かされれば,母親は何としても付き添いたいと思います。

これが2回目,3回目になれば,

「病院にいる間は安心。むしろ帰ってからが心配。子供もいるし。」

と思って,退院後に手伝いに来ることになります。

とにかく1回目の手術の時,付き添いと言っても特にやることもなくじっと座っていたためにエコノミー症候群に「なってしまったのです。

つくばでの付き添いが終わって新居浜に帰ったその足で新居浜の住友病院に入院したのです。

帰りのバスの中で状態が悪くなり,バスから降りたその場所が住友病院の前で,そのまま入院したのです。

それから1か月近くICUにいたのです。

ベットから降りることは許されなかったそうです。

私より,大変な事になっていたのです。

今回は3回目で手術や入院には慣れていたし,エコノミー症候群にならないようにバスは使わず,新幹線でこちらに来ていました。

しかし,出産時に手伝いに来てくれた時から考えると10歳以上は年を取っているので無理はさせられません。

しかも,「娘が出産で手伝いに行く」のと「娘が癌で手伝いに行く」のとは気持ち的に大きく違います。

そんなことを考えると,私も哀れだが,私の母も哀れだなと改めて思いました。