子育てと闘病を両立する方法。

大腸がんステージⅣの闘病と子育てを両立させ最終的に完治した闘病記を記します。

東大病院と新居浜おばあちゃん。(その1)

昨日は大変でした。

熱が40℃で腹のチューブから膿がどくどくと出ている状態で,電車で東大病院に行ったのです。

つくばエクスプレスに乗って新御徒町で大江戸線に乗り換えて本郷三丁目で降ります。

駅を出たら東大の懐徳門の方に向かって歩いていきます。

病院は龍岡門が近いのですが,大通り沿いの細い歩道を歩くことは不可能でした。

前からくる人とぶつかりそうになります。

熱でふらふらしているので,ほとんど旦那が引っ張っている状態です。

しかも膿がたくさん出るので,ガーゼをものすごく重ねて腹に着けていて,腹の一部が異常に盛り上がっています。

こんな状態で混雑している龍岡門に行くことは不可能でした。

懐徳門は裏道でこの道を歩いている人はほとんど東大の学生さんか職員の方なのでこちらの門から入って病院に向かいました。

昨日は入院すると思って入院グッズを用意して行ったのに帰されました。

今日も手当と点滴があるので東大に行かなければいけません。

しかし解熱剤の座薬を定期的に入れているので今日は楽に行けそうでした。

朝,チューブ付近を見てあまりの膿の多さにまた気絶しそうになりましたが,病院に行けば何とかしてくれます。

そう思うと早く行きたい気分です。

今日は新居浜おばあちゃんについてきてもらうことにしました。

昨日のように熱が高くないので,旦那は子守でおばあちゃんが私の付き添いということになったのです。

今日は土曜日なので昨日と同じように救急受付に行きました。

新居浜おばあちゃんと2人で椅子に座って待っていました。

新居浜おばあちゃんは東大病院が初めてなので,

「これが東大病院か。なんかすごいわ。緊張するわ。」

ときょろきょろあたりを見渡していました。

重病人が電車で病院に行く。

退院後3日で腹のチューブから大量の膿がどくどくと出てき始めて熱が40℃になりました。

その時,私と新居浜おばあちゃんしか家にいませんでした。

「ああ。これは病院に行けるのか?」

「東大病院は遠すぎる。」

「つくば市内ならすぐ行けるのに・・・。」

と思いながらも東大病院に電話をして主治医のT先生につないでもらいました。

T先生は,

「すぐに来てください。見ないとわからないので。」

とおっしゃいました。

新居浜おばあちゃんと病院に行くしかないかと思いましたが,おばあちゃんは免許を持ってないし私もとても運転できる状態ではありません。

そこで,前の家のご夫婦に駅まで送ってもらえないか頼みました。

すると前の家のご夫婦が出てきて,

「送るのは全く構わないし,なんでもしますが。」

「でもとにかくまずはご主人と東大病院に行く方がいいと思います。」

「お母様(新居浜おばあちゃん)は子供たちのお世話をされた方がいいでしょう。」

「この病状の人を東京まで連れていくには荷が重いでしょう。」

とおっしゃいました。

全くその通りです。

私たちは突然の出来事に思考回路が混乱していたようです。

まずは旦那でしょう。

ここまでもいつも旦那と二人三脚だったのですから。

そして旦那に電話をしたら,すぐに帰ってきました。

この時点で私たち3人とも,「また入院」と疑いなく思っていました。

旦那と私の大冒険でした。

今にも倒れそうなこの状態で果たして東大病院に行けるのでしょうか?

つくばエクスプレスに乗って新御徒町で大江戸線に乗り換えて2駅目の本郷三丁目まで行かなければいけません。

ホームに上がって倒れそうになり,電車に乗って倒れそうになり,電車を乗り換えて倒れそうになり・・・。

何回もうずくまりました。

旦那は背中をさすりながら,「もう少しだけ頑張れ!」と言って引っ張るように私を動かしました。

そして何とか東大病院に到着したのです。

休日だったので,入院棟の入り口から入って右手にある救急窓口で手続きをしました。

東大病院は救急病院ではないので人はほとんどいませんでした。

つくばメディカルセンター病院とは全然違うなと思いました。

すぐにT先生がやってきて

「こちらに来てください」

とおっしゃってついて行くと,奥に手術室のような大きな部屋がありました。

あなたはもしかして東大病院に行ったことがあるかもしれません。

しかし,この救急外来の小さな入口の奥に,手術室みたいな大きな部屋がある事は知らないでしょう。

「こんな部屋があるんだ。この部屋知ってるの私くらいかも。」

と熱でうなされながらもラッキーみたいな気持ちになりました。

そしてT先生はその大きな部屋の真ん中にあるベットに向かって,

「ここに横になってください」

とおっしゃいました。

そこに横になるとは手術するということなのか?と少しひるみました。

しかし先生一人で手術するわけがないのでおとなしく横になりました。

そしてガーゼを取って膿でいっぱいのチューブ近辺を確認した後,

「このまま点滴します。」

「熱は解熱剤で下げましょう。」

「1時間かかります。」

「そして今日は帰宅してまた明日来てください。」

「明日は日曜日なので同じようにこの部屋で処置します。」

「救急窓口に来てください。」

とおっしゃったのです。

信じられません!!

この状態で帰宅するですと!!

「先生。私は入院するかと思って支度してきたのですが。」

と言うと,T先生は,

「化膿して膿が出るのは想定内です。化膿しているのだから熱も出ます。」

「このようなことを繰り返しながら,だんだん回復していくのですよ。」

「すべて治るまで入院とかありえません。」

とおっしゃいました。

いや全く,東大病院は重病人のための病院ですね。

つくづく思い知りました。

点滴が終わって旦那のところに行くと,旦那は,

「点滴したんだよね。どうするって?」

私:「今日は帰れって。そしてまた明日来いって。」

旦那:「うーん。さすが東大・・・。」

と言いながら,会計をして帰りました。

解熱剤を入れたおかげで帰りは楽でした。

また入院か?!

昨日新居浜おばあちゃん(私の母)がやってきました。

昨日の夜は,私たち家族5人に岐阜おばあちゃん,新居浜おばあちゃんで食卓を囲みました。

とてもにぎやかな夕食の時間でした。

入院中のベットのテーブルでの夕食と全く違いました。

(しかし私は一人きりのベットの夕食も嫌いではありません。)

そして今日岐阜おばあちゃんは岐阜に帰りました。

それから3日間は穏やかに過ごしました。

腹から出ているチューブの洗浄には少し時間がかかりましたが何とか慣れてきました。

朝家族がそれぞれ出勤や登校で家を出て行ったあと,新居浜おばあちゃんとコーヒーを飲みながらおしゃべりする時間は本当に楽しかったです。

そんな感じで穏やかに過ごしていましたが・・・。

退院してから3日目の朝,なんとなくだるい感じがしていました。

それでも普通にしていましたが,だるさがだんだんひどくなってきます。

チューブの消毒はいつもお昼にやっていたので,そろそろやるかと脱衣室に行きました。

そして自分のお腹を見て驚きで倒れそうになりました。

当てていたガーゼだけでなくその周りの一帯が黄色の液体で濡れていたのです。

震える手でガーゼを取って,また気絶しそうになりました。

チューブからどくどくと膿が出ているだけでなく,チューブが刺さっている脇からも膿が出ていたのです。

要するにチューブが刺さっている意味がない,出れる場所から出てやる!という膿の勢いがあったのです。

「お母さん。やばいことになった。」

「すぐ病院に行ける用意をして。ああ。入院グッズも持って行った方がいいかも。」

「ああ。入ってこないですごく気持ち悪い事になってるから。」

と母に声かけをしながらとにかく厚さ10センチくらいにガーゼを重ねてチューブの場所に当てました。

それから脱衣所を出て熱を測ったら40℃に上がっていました。

呼吸もゼエゼエという感じです。

「ああ。これは病院に行けるのか?」

「東大病院は遠すぎる。」

「つくば市内ならすぐ行けるのに・・・。」

と思いながらも東大病院に電話をして主治医のT先生につないでもらいました。

T先生は,

「すぐに来てください。見ないとわからないので。」

とおっしゃいました。

とりあえず何とか東大病院に行くことにしました。

旦那と旦那の母と子供たち

やっと退院してきました。

懐かしの我が家です。(トムとジェリー?)

岐阜おばあちゃん(旦那の母)が迎えてくれました。

そういえば旦那の母といえばカレーうどんを思い出します。

あれは術後ICUを経て,一般病棟のナースステーションの前の部屋を経て,4人部屋に移ってきた日です。

4人部屋に移ったからといって私は動けるようになったわけではありません。

昨日までトイレも看護師さんに支えてもらっていたので,この部屋で生活できるのか不安な時でした。

その日動きすぎたのでしょう。

夕方痛みがきつくなったので硬膜外麻酔を先生に多く流してもらいました。

そんな時旦那からメールが来たのです。

それも立て続けに何通も来たのです。

「何事!!」

と思って携帯に飛びつきました。

そしたらこんな内容でした。

「今,晩御飯でカレーうどん。」

「ゆですぎたうどんの上に昨日のぼたっとしたカレーが載っている。」

「汁気が全くない。」

「これは酷い。」

「これはカレーうどんではない。」

「子供たちも顔がゆがんでいる。きっと嫌なのだ。」

「でも子供たちは食べ始めた。」

「俺は無理。」

「醤油で食べる。」

こんなばかばかしい内容でした。

私は痛すぎて硬膜外麻酔を多くしてもらっているときにこんなバカげたメールが来たのでした。

しかも旦那は相当怒っているようで文面に怒りが表れていました。

あれから7年経った今でもカレーやカレーうどんのたびに必ず誰かが,

「岐阜おばあちゃんのカレーうどんは凄かったね。」

「お父さん怒っちゃって醤油でうどん食べたね。」

「僕ら仕方がないから我慢して食べたよね。」

といいます。

しかし考えてみたら岐阜おばあちゃんは幸せ者です。

カレー,あるいはカレーうどんのたびにひとしきり我が家では岐阜おばあちゃんの話で盛り上がるのです。

4人の祖父,祖母の中でダントツに岐阜おばあちゃんは子供たちの心に刷り込まれているのです。

話を戻します。

懐かしの我が家に帰ってきたら,岐阜おばあちゃんが笑顔で迎えてくれました。

ひとしきり話をして,2階へ行きました。

するとびっくりしました。

だだっ広いワンフロアーの2階を旦那が壁で仕切っていたのです。

旦那は大工さんではありません。

しかし,大工さんを頼んだのかと思うほどの出来栄えでした。

子供たちは部屋が欲しい年齢ですが,私の病気で改築は延び延びになっていました。

しかし,私が手術中に改築を決行して,しかも自分でやってしまうとは。

ある意味旦那にとっては時間ができたのでしょう。

病気の私がいないし,岐阜おばあちゃんが来て子供の世話も頼めるようになったので。

仕事が終わってうちに帰って大工仕事をしてさあ夕飯というときに,ぼてっとしたカレーうどんで悲しかったのでしょう。

そんなことを考えながら出来立ての子供部屋のベットに横になりました。

ある程度回復するまでこの部屋は私が使うことにになりました。

やはり術後は布団よりベットが楽なので。

明日は私の母(新居浜おばあちゃん)がやってきます。

しかしその後試練が待ち受けているのです。

 

チューブを付けたままの退院

術後の炎症によって退院が延期になった時間で内省したことを書きました。

書いているうちに長くなってしまいました。

内省に関してはこちら(リンク)↓↓

 

calendura2009.hatenablog.com

 

話を元に戻します。

炎症も落ち着き,真っ黄色だったボトルの液も薄い黄色になってきました。

もうそろそろ退院だなと予想していましたが,一つ気になることがありました。

このドレーンを抜いてしまって大丈夫なのかということです。

薄くなったとはいえ,結構な量が排出されています。

これを抜いてしまったら,体内に溜まってしまうのではないかと気になりました。

その日の回診は先生1人と看護師さんだけでやってきたので聞いてみました。

すると先生は,

「このボトルを下げたまま退院します。」

とおっしゃったのです。

びっくりしました。

ボトルを腹から下げたままつくばエクスプレスに乗って帰っている姿を想像しました。

いや,その前にぎゅうぎゅう詰めの大江戸線で新御徒町まで電車に乗っているところを想像しました。

「いやいや,ありえません。無理です。先生。」

と青くなって訴えましたが,あっさり却下されました。

「そんなことを言っていたらいつまでも退院できません。」

「完全に回復するまで入院することなんて不可能です。」

私は愕然としました。

「ああやっぱり,これまでの手術とは違うわ・・・。よっぽど大手術だったわけだ。」

と妙に納得してこれ以上の反論はしませんでした。

しかし,電車で帰るのはなんとなく嫌です。

おばさんですから人の目はあまり気になりませんが,チューブがぶちっと引きちぎれたらと思うと怖くなります。

旦那に車を頼んでみました。

車で東京ということで少し渋りましたが,理由が理由なので納得してくれました。

田舎に住んでいると東京の運転は怖いのです。

車が確保できたところで,毎日のボトル交換のシュミレーションをしてみました。

これに関しては,自宅で抗がん剤をやっていた経験からか,あまり抵抗はありませんでした。

そんな感じで万全の態勢でいよいよ明日退院というところで。

突然先生が方針を変えたのです。

腹から10センチのところでチューブを切ってボトルを外すことになったのです。

チューブの出口にはガーゼを当ててテープで腹に固定します。

このガーゼを1日2回交換するのです。

ボトルがぶら下がっていないので,外から見ると普通の人です。

かなり身軽になっていい感じで退院することになりました。

家にはおばあちゃん(旦那の母)が手伝いに来てくれています。

昨日私の母に連絡しておいたので明後日には私の母が来てくれて,旦那の母と交代という段取りになっています。

いよいよ明日退院です。

 

 

天命。しかし実行できない(その2)

このブログを書き始めたのが3年前の4月。

東大病院で3回目の手術をしてから7年たっていました。

天命を知ったのになぜすぐに着手しなかったのか?

それはあなたがもし重い病気,あるいは重大な問題を抱えていたら分かると思います。

この心理がきっとわかるはずです。

重大な出来事があったあとは,そこにとどまりたくないのです。

そのことを考えたくないのです。

全くそんなことがなかったかのようにふるまいたくなるのです。

そのことを考えると苦しい感情がよみがえり,またあの状態になってしまうのではないかという強烈な不安が襲ってくるのです。

私はこの東大病院での3回目の手術以降,結果的に再発しませんでした。

従って完治したわけです。

しかし,最後の手術から5年たって術後の癒着による腸閉塞になってしまいました。

そして流動食生活になりまた東大病院にお世話になることになります。

腸閉塞事件からの立ち直りはとても早かったです。

1年間腸閉塞で苦しみ,何とか治まったとわかってから1年でこのブログを書き始めましたから。

東大病院での最後の手術から,腸閉塞までの5年間にやれることはいっぱいあったのです。

しかしなぜかできなかったのです。

私は癌だったことをなかったかのようにして大学で実験の仕事を始めたのです。

内省によって得られた「計量してなにかを作る」という正確性の求められる職業につくことができて私の魂は喜びました。

しかし,心の片隅では内省によって得られた私の天命「癌の体験を伝える」をいつかやらなければと思っていました。

深くて辛い経験をした場合は人に伝える気持ちになるまでに長い時間がかかるのです。

本当は闘病ブログとしてリアルに伝えていくと,今現在闘病中の人に大きな恩恵を与えることができるでしょう。

しかし,私はできなかったのです。

7年たった今,やっとあなたに伝えることが出来ました。

 

天命。しかし実行できない(その1)

退院が延期になったことでできた時間で内省しました。

その件に関してはこちら(リンク)とこちら(リンク)↓↓↓

 

calendura2009.hatenablog.com

 

 

calendura2009.hatenablog.com

 

この内省で自分に関して多くの事を知りました。

自分の特質や,気が付かなかった長所などもわかりました。

そして何より今後進むべき方向,というか天命のようなものもうっすらと見え始めました。

「この癌は私の人生のテーマである」

この点に気が付いたことで今後私が取り組まなければいけないテーマがわかったのです。

もし,死んだとしても私の癌は私の周りの多くの人たちにインパクトを与えました。

ある人は「がん検診に毎年必ず行こう」と思ったかもしれません。

ある人は「子育ての基盤を盤石にしておこう」と思ったかもしれません。

ある人は「健康には細心の注意をはらおう」と思ったかもしれません。

ある人は「家族を大切にしよう」と思ったかもしれません。

ある人は「今ある幸せに感謝しよう」と思ったかもしれません。

私が癌になることで,私を支えてくれた約100人の人たちは何かに気づきました。

そしてその100人は周りの人におしゃべりのついでにこの件に関して話して,また広がっていくでしょう。

次に私がもし死ななかったらどうなるでしょう?

上記の100人の人の広がりはそのまま広がるでしょうが内容が変わってきます。

「ステージ4の癌の人が治ったんだって。しかも小さい子供を3人育てながら闘病したらしい。」

この噂話は子育て中のお母さんにとっていろいろ考えることになるでしょう。

「私は癌になるわけにはいかない。」

「癌になったとしてもステージ1で見つけて治してしまおう。」

「だってステージ4で治った人がいるのならステージ1だと絶対に治るはず。」

「もし,私が癌になってしまっても子育てが回るように子育てのネットワークを作っておこう。」

「私の子供は保育園だけど安心せずにネットワークは作っておこう。」

「旦那一人に送迎の負担がかかるのは無理だから。」

「しかし最悪の状態でも子供は育つんだな。」

「今普通に子育てできていることはものすごく幸せなことかもしれない。」

このようなことを考えるかもしれません。

私は内省によって自分の使命に気がつきました。

「子育てしながら癌を乗り越えた経験を伝える。」

ということです。

まあ,それでこのブログを書いているのですが・・・。